室生犀星
室生犀星
室生犀星は本校の卒業生です。

広報「のまち」


 写真:昭和22年(1947)頃
    大森馬込の自宅にて

 室生犀星は金沢に生まれました。その出生は、決

して幸せなものではなかったように思われます。し

かし昭和37年、その一生を終えるまでの73年間

に、しっかりと「足跡」を残しました。犀星の足跡

を見ることで、室生犀星という偉大な作家の心に近

けるのではないでしょうか?また、「足跡」を辿っ

ていく途中で、私たち自身の生き方に犀星が何か語

りかけてくれるような、そんな気がしてならないの

です。


1889(明治22)年

0歳

8月1日、金沢に生まれる。父は旧加賀藩足軽組頭、小畠弥左衛門吉種(64歳)、母は小畠家に奉公していたハル(32歳)。生後まもなく雨宝院住職、室生真乗の内縁の妻赤井ハツにもらわれ、照道と名付けられる。

1895(明治28)年

6歳

9月3日、金沢市立野町尋常小学校に入学(他の児童は4月1日に入学)。
1896(明治29)年

7歳

雨宝院住職 室生真乗の養嗣子となり、室生姓となる。
1898(明治31)年

9歳

実の父 小畠弥左衛門吉種死去。その後、生母ハルと会うことはなかった。
1899(明治32)年 10歳 3月、野町尋常小学校(4年制)を卒業する。
1900(明治33)年 11歳 4月、金沢市長町高等小学校入学。
尋常小学校卒業後1年の空白の理由は分かっていない。
1902(明治35)年 13歳 5月、高等小学校を3年で退学。金沢区裁判所に給仕として勤める。
1904(明治37)年 15歳

10月8日付の「北國新聞」に俳句が掲載される。
水郭の一林紅し夕紅葉  照文 (照文は犀星のペンネーム)

1905(明治38)年 16歳 「北國新聞」に「寒い月」を投稿、掲載される。東京で刊行されている『少年世界』に「行く春」が掲載される。

1906(明治39)年

17歳 「政教新聞」に掲載された詩で、初めて犀星の名を使う。
『文章世界』創刊号に「河辺の春」を投稿し、入選。
1907(明治40)年 18歳 『新声』に「さくら石斑魚に添えて」を投稿、掲載。
北辰詩社を尾山篤二郎・十河桂舟・表棹影らと結成する。
1908(明治41)年 19歳 『新声』に投稿した俳句が選者賞を受ける。
北辰詩社の機関誌『響』を創刊。
1909(明治42)年 20歳 金沢地方裁判所金石出張所に転任。近くの尼寺(現在は海月寺)に下宿する。
9月 裁判所を退職。福井の「三国新聞」に勤めるが、程なく退社する。
1910(明治43)年 21歳 金沢の「石川新聞」に勤めるが、程なく退社。
5月、初めて上京する。
1911(明治44)年 22歳 7月、生活に困窮しての帰郷。10月、再び上京。
1912(明治45)年 23歳 6月、帰郷。
1913(大正2)年 24歳 『朱欒(ザンボア)』に詩を初めて掲載。
突然、萩原朔太郎から手紙が届き、以来、親交を結ぶ。
1914(大正3)年 25歳 萩原朔太郎と初めて出会う。
萩原朔太郎・山村暮鳥と人魚詩社を結成。
8月、金沢に帰郷。
1915(大正4)年 26歳 人魚詩社の機関誌『卓上噴水』が創刊。
初めて原稿料をもらう(『文章世界』掲載の詩で)。
1916(大正5)年 27歳 自らが発行兼編集した『感情』を創刊。
1917(大正6)年 28歳 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』が内務省より発売禁止となり、発行人として出頭する。
養父 室生真乗が死去。
金沢市内の小学校教員、浅川とみ子と婚約。雨宝院は人に譲る。
1918(大正7)年 29歳 『愛の詩集』を自費出版。
浅川とみ子と挙式。その後、上京。
『新しい詩とその作り方』を刊行。
『抒情小曲集』を自費出版。
1919(大正8)年 30歳 『第二愛の詩集』を刊行。
初めての本格的小説「幼年時代」が『中央公論』に掲載。作家デビューを果たす。
1920(大正9)年 31歳 『性に目覚める頃』を刊行。
初めての新聞小説「海の僧院」を報知新聞に連載。
1921(大正10)年 32歳 5月、長男 豹太郎誕生。
「史実小説」と称される最初の作品「九谷庄三」を発表。
1922(大正11)年 33歳 長男 豹太郎死去。傷心の妻を連れ伊豆へ赴く。
亡き豹太郎を悼んで『亡春詩集』を刊行。
1923(大正12)年 34歳  8月、長女 朝子誕生。
9月、関東大震災にあう。10月 金沢へ帰郷。
1924(大正13)年 35歳  芥川龍之介、中野十吉ら金沢に来る。
1925(大正14)年 36歳 家族とともに上京。
『魚眠洞随筆』を刊行(初めての随筆集)。
1926(大正15)年 37歳 金沢の天徳院に庭造りを計画。 次男 朝巳誕生。
1927(昭和2)年 38歳 芥川龍之介自殺。
1928(昭和3)年 39歳 義母 赤井ハツ死去。
1929(昭和4)年 40歳 『魚眠洞発句集』を刊行(初めての句集)。
1932(昭和7)年 43歳 明治大学講師となる。しかし、一度の講義だけでやめてしまう。
1934(昭和9)年 45歳 文芸懇話会が設立、会員となる。
「あにいもうと」の連載開始。
「詩よ君とお別れする」を発表。詩と決別しようとする。
1935(昭和10)年 46歳 芥川賞・直木賞が設定され、以後、16回まで芥川賞選考委員となる。
「あにいもうと」が第1回文芸懇話会賞を受賞。
1936(昭和11)年 47歳 「あにいもうと」が映画化。
『室生犀星全集(13巻、別巻1巻)』が刊行。
詩歌懇話会設立、会員となる。
1937(昭和12)年 48歳 満州旅行(生涯を通じただ1度だけの海外旅行)。
普連土学園の校歌を作詞(初めての校歌作詞となる)。
1939(昭和14)年 50歳 『文学者』創刊、同人となる。
第1回中原中也詩人賞選考会の選考委員として参加。
大田区馬込小学校の校歌を作詞。
水戸高等学校で講演をする(萩原朔太郎と共に)。
1940(昭和15)年 51歳 『荻吹く歌』を連載(王朝物と称される最初の作品)。
1941(昭和16)年 52歳 『戦死』により第3回菊池寛賞受賞。
金沢に帰郷。生涯を通じ、最後の帰郷となる。
1942(昭和17)年 53歳 萩原朔太郎死去。この年より童話を執筆するようになる。
1943(昭和18)年 54歳 『萩原朔太郎全集』を刊行、監修者の一人となる。
1944(昭和19)年 55歳 一家をあげて軽井沢に疎開する。
1948(昭和23)年 59歳 日本芸術院会員の辞令を受ける。
天皇陛下の陪食に招待されるが辞退。
1949(昭和24)年 60歳 疎開生活を切り上げ、東京に戻る。
1950(昭和25)年 61歳

宮中より新年歌会初めに陪席の声がかかったが辞退。
大田区馬込第三小学校の校歌を作詞する。

1952(昭和27)年 63歳 母校の野町小学校の創立80周年記念に、校歌 を作詞する。
1953(昭和28)年 64歳 「あにいもうと」再映画化。
NHKの依頼により「栃の木」を作詞する。
1954(昭和29)年 65歳 「性に目覚める頃」を「麦畑」と改題して映画化。
1955(昭和30)年 66歳 「随筆 女ひと」の連載開始。
『黒髪の書』を刊行。
1956(昭和31)年 67歳 「舌を噛み切った女」を歌舞伎座で上演。また、これを「地獄花」と改題し映画化。
大田区立萩中小学校の校歌を作詞する。
「杏っ子」の連載開始。
1958(昭和33)年 69歳 第9回読売文学賞を「杏っ子」にて受賞
「杏っ子」が映画化。
1959(昭和34)年 70歳 日本文芸家協会の名誉会員となる。
金沢大学の校歌を作詞する。(生涯を通じ、21の校歌を作詞 これが最後となる)。
妻 とみ子死去。
第13回毎日出版文化賞を「我が愛する詩人の伝記」により受賞。
第12回野間文芸賞を「かげろふの日記遺文」により受賞
1960(昭和35)年 71歳 限定句集「とみ子発句集」を刊行。知人に贈る。
「犀星詩人賞」を設定。
1961(昭和36)年 72歳 文学碑完成(軽井沢)。
肺ガンにより入院(本人には知らされず)。
1962(昭和37)年 73歳  「老いたるえびのうた」が完成。最後の作品となる。 
『室生犀星全詩集』が刊行。 
3月26日 午後7時26分 肺ガンのため死去。
従四位に叙せられ、勲三等瑞宝章を贈られる。
1963(昭和38)年
 

金沢市中川除町に文学碑が建立。
金沢市野田山墓地に埋葬される。

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