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1889(明治22)年 |
0歳 |
8月1日、金沢に生まれる。父は旧加賀藩足軽組頭、小畠弥左衛門吉種(64歳)、母は小畠家に奉公していたハル(32歳)。生後まもなく雨宝院住職、室生真乗の内縁の妻赤井ハツにもらわれ、照道と名付けられる。 |
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1895(明治28)年 |
6歳 |
9月3日、金沢市立野町尋常小学校に入学(他の児童は4月1日に入学)。 |
| 1896(明治29)年 |
7歳 |
雨宝院住職 室生真乗の養嗣子となり、室生姓となる。 |
| 1898(明治31)年 |
9歳 |
実の父 小畠弥左衛門吉種死去。その後、生母ハルと会うことはなかった。 |
| 1899(明治32)年 |
10歳 |
3月、野町尋常小学校(4年制)を卒業する。 |
| 1900(明治33)年 |
11歳 |
4月、金沢市長町高等小学校入学。
尋常小学校卒業後1年の空白の理由は分かっていない。 |
| 1902(明治35)年 |
13歳 |
5月、高等小学校を3年で退学。金沢区裁判所に給仕として勤める。 |
| 1904(明治37)年 |
15歳 |
10月8日付の「北國新聞」に俳句が掲載される。
水郭の一林紅し夕紅葉 照文 (照文は犀星のペンネーム) |
| 1905(明治38)年 |
16歳 |
「北國新聞」に「寒い月」を投稿、掲載される。東京で刊行されている『少年世界』に「行く春」が掲載される。 |
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1906(明治39)年 |
17歳 |
「政教新聞」に掲載された詩で、初めて犀星の名を使う。
『文章世界』創刊号に「河辺の春」を投稿し、入選。 |
| 1907(明治40)年 |
18歳 |
『新声』に「さくら石斑魚に添えて」を投稿、掲載。
北辰詩社を尾山篤二郎・十河桂舟・表棹影らと結成する。 |
| 1908(明治41)年 |
19歳 |
『新声』に投稿した俳句が選者賞を受ける。
北辰詩社の機関誌『響』を創刊。 |
| 1909(明治42)年 |
20歳 |
金沢地方裁判所金石出張所に転任。近くの尼寺(現在は海月寺)に下宿する。
9月 裁判所を退職。福井の「三国新聞」に勤めるが、程なく退社する。 |
| 1910(明治43)年 |
21歳 |
金沢の「石川新聞」に勤めるが、程なく退社。
5月、初めて上京する。 |
| 1911(明治44)年 |
22歳 |
7月、生活に困窮しての帰郷。10月、再び上京。 |
| 1912(明治45)年 |
23歳 |
6月、帰郷。
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| 1913(大正2)年 |
24歳 |
『朱欒(ザンボア)』に詩を初めて掲載。
突然、萩原朔太郎から手紙が届き、以来、親交を結ぶ。 |
| 1914(大正3)年 |
25歳 |
萩原朔太郎と初めて出会う。
萩原朔太郎・山村暮鳥と人魚詩社を結成。
8月、金沢に帰郷。 |
| 1915(大正4)年 |
26歳 |
人魚詩社の機関誌『卓上噴水』が創刊。
初めて原稿料をもらう(『文章世界』掲載の詩で)。 |
| 1916(大正5)年 |
27歳 |
自らが発行兼編集した『感情』を創刊。 |
| 1917(大正6)年 |
28歳 |
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』が内務省より発売禁止となり、発行人として出頭する。
養父 室生真乗が死去。
金沢市内の小学校教員、浅川とみ子と婚約。雨宝院は人に譲る。 |
| 1918(大正7)年 |
29歳 |
『愛の詩集』を自費出版。
浅川とみ子と挙式。その後、上京。
『新しい詩とその作り方』を刊行。
『抒情小曲集』を自費出版。 |
| 1919(大正8)年 |
30歳 |
『第二愛の詩集』を刊行。
初めての本格的小説「幼年時代」が『中央公論』に掲載。作家デビューを果たす。 |
| 1920(大正9)年 |
31歳 |
『性に目覚める頃』を刊行。
初めての新聞小説「海の僧院」を報知新聞に連載。 |
| 1921(大正10)年 |
32歳 |
5月、長男 豹太郎誕生。
「史実小説」と称される最初の作品「九谷庄三」を発表。 |
| 1922(大正11)年 |
33歳 |
長男 豹太郎死去。傷心の妻を連れ伊豆へ赴く。
亡き豹太郎を悼んで『亡春詩集』を刊行。 |
| 1923(大正12)年 |
34歳 |
8月、長女 朝子誕生。
9月、関東大震災にあう。10月 金沢へ帰郷。 |
| 1924(大正13)年 |
35歳 |
芥川龍之介、中野十吉ら金沢に来る。 |
| 1925(大正14)年 |
36歳 |
家族とともに上京。
『魚眠洞随筆』を刊行(初めての随筆集)。 |
| 1926(大正15)年 |
37歳 |
金沢の天徳院に庭造りを計画。 次男 朝巳誕生。 |
| 1927(昭和2)年 |
38歳 |
芥川龍之介自殺。 |
| 1928(昭和3)年 |
39歳 |
義母 赤井ハツ死去。 |
| 1929(昭和4)年 |
40歳 |
『魚眠洞発句集』を刊行(初めての句集)。 |
| 1932(昭和7)年 |
43歳 |
明治大学講師となる。しかし、一度の講義だけでやめてしまう。 |
| 1934(昭和9)年 |
45歳 |
文芸懇話会が設立、会員となる。
「あにいもうと」の連載開始。
「詩よ君とお別れする」を発表。詩と決別しようとする。 |
| 1935(昭和10)年 |
46歳 |
芥川賞・直木賞が設定され、以後、16回まで芥川賞選考委員となる。
「あにいもうと」が第1回文芸懇話会賞を受賞。 |
| 1936(昭和11)年 |
47歳 |
「あにいもうと」が映画化。
『室生犀星全集(13巻、別巻1巻)』が刊行。
詩歌懇話会設立、会員となる。 |
| 1937(昭和12)年 |
48歳 |
満州旅行(生涯を通じただ1度だけの海外旅行)。
普連土学園の校歌を作詞(初めての校歌作詞となる)。 |
| 1939(昭和14)年 |
50歳 |
『文学者』創刊、同人となる。
第1回中原中也詩人賞選考会の選考委員として参加。
大田区馬込小学校の校歌を作詞。
水戸高等学校で講演をする(萩原朔太郎と共に)。 |
| 1940(昭和15)年 |
51歳 |
『荻吹く歌』を連載(王朝物と称される最初の作品)。 |
| 1941(昭和16)年 |
52歳 |
『戦死』により第3回菊池寛賞受賞。
金沢に帰郷。生涯を通じ、最後の帰郷となる。 |
| 1942(昭和17)年 |
53歳 |
萩原朔太郎死去。この年より童話を執筆するようになる。 |
| 1943(昭和18)年 |
54歳 |
『萩原朔太郎全集』を刊行、監修者の一人となる。 |
| 1944(昭和19)年 |
55歳 |
一家をあげて軽井沢に疎開する。 |
| 1948(昭和23)年 |
59歳 |
日本芸術院会員の辞令を受ける。
天皇陛下の陪食に招待されるが辞退。 |
| 1949(昭和24)年 |
60歳 |
疎開生活を切り上げ、東京に戻る。 |
| 1950(昭和25)年 |
61歳 |
宮中より新年歌会初めに陪席の声がかかったが辞退。
大田区馬込第三小学校の校歌を作詞する。 |
| 1952(昭和27)年 |
63歳 |
母校の野町小学校の創立80周年記念に、校歌
を作詞する。 |
| 1953(昭和28)年 |
64歳 |
「あにいもうと」再映画化。
NHKの依頼により「栃の木」を作詞する。 |
| 1954(昭和29)年 |
65歳 |
「性に目覚める頃」を「麦畑」と改題して映画化。 |
| 1955(昭和30)年 |
66歳 |
「随筆 女ひと」の連載開始。
『黒髪の書』を刊行。 |
| 1956(昭和31)年 |
67歳 |
「舌を噛み切った女」を歌舞伎座で上演。また、これを「地獄花」と改題し映画化。
大田区立萩中小学校の校歌を作詞する。
「杏っ子」の連載開始。 |
| 1958(昭和33)年 |
69歳 |
第9回読売文学賞を「杏っ子」にて受賞
「杏っ子」が映画化。 |
| 1959(昭和34)年 |
70歳 |
日本文芸家協会の名誉会員となる。
金沢大学の校歌を作詞する。(生涯を通じ、21の校歌を作詞 これが最後となる)。
妻 とみ子死去。
第13回毎日出版文化賞を「我が愛する詩人の伝記」により受賞。
第12回野間文芸賞を「かげろふの日記遺文」により受賞 |
| 1960(昭和35)年 |
71歳 |
限定句集「とみ子発句集」を刊行。知人に贈る。
「犀星詩人賞」を設定。 |
| 1961(昭和36)年 |
72歳 |
文学碑完成(軽井沢)。
肺ガンにより入院(本人には知らされず)。 |
| 1962(昭和37)年 |
73歳 |
「老いたるえびのうた」が完成。最後の作品となる。
『室生犀星全詩集』が刊行。
3月26日 午後7時26分 肺ガンのため死去。
従四位に叙せられ、勲三等瑞宝章を贈られる。 |
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金沢市中川除町に文学碑が建立。
金沢市野田山墓地に埋葬される。
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